井原市が抱えている諸問題
目次
1.都市計画道路(青木・境森線)と井原鉄道とのダブルブッキング
2.都市計画税~2000年施行の都市計画法改正への「条例」対応
3.参考資料
^^^^^
1.都市計画道路(青木・境森線)と井原鉄道とのダブルブッキング
都市計画道路を着工しようとすれば、井原鉄道の橋脚を撤去しなくてはならない。
井原鉄道を 存続させようとするなら、
都市計画道路を断念するか、 橋脚の付け替えをしなくてはならない。
〇 都市計画道路~青木・境森線
井原市には 1965年(昭40)以降 いくつかの都市計画道路が計画されたが、
今も未着手のものや、青木・境森線のように 未着手区間が残っているものなどがある。
※ 2024年3月15日付、このうち 2線を削除、5つの線を計画区間の一部削除した。
井原市都市計画総括図
今、ここで 問題とするのは、
いまなお計画が生きている1965年に計画された「青木・境森線」についてである。
この道路は、国道486号線 および313号線に ほぼ重なっており、
その計画された幅員(道路幅)は、区間によって 25mから18mといろいろである。
↓ 国道486号線(幅員約6m)が、青木地内(東江原町)で井原鉄道と交差している。

上の写真の右側に 目を移すと ☟

井原線の高架の高さは 約1m。
白線が残っている道路は、
旧県道25号線で、小田川の土手になっている。
この井原線の橋脚は、1969年(昭和44)8月竣工。
都市計画道路「青木・境森線」(この部分は幅員18m)は、
実は、上の写真の486号線ではなく、驚くべきことに この旧県道なのである。
この旧県道を 幅員18mの 都市計画道路 にするには、
井原線の頑丈な橋脚を撤去する以外には、事実上不可能である。
〇 井原鉄道
井原鉄道は、当初 国鉄が計画したもので、
1966年(昭和41)5月 認可され、7月 着工した。
しかし、1980年(昭和55)12月 国鉄再建法施行により、建設は中止となる。
その後、1984年(昭和59)3月 国鉄吉備線延長期成同盟(S26発足)が活動を再開し、
1986年(昭和61)12月 県や周辺市町等が出資して第3セクター 井原鉄道が設立した。
当時の井原市長は 故西山公夫(1985.4~90.8)
岡山県知事は 故長野士郎(1972.11~96.11)
井原鉄道を存続させるなら、都市計画道路は 断念しなくてはならなかった。
① この橋脚は、国鉄が 1969年(昭和44)に竣工したので、
この建設時に、当然 国鉄と県および井原市と、この件につき協議があったはずである。
しかし、井原市も岡山県も井原鉄道(株)も、そうした協議文書はないとのことである。
(先般、井原鉄道に問い合わせると、このダブルブッキングの問題を認識してなかった)
② また、第3セクター設立の際には、
周辺自治体などの出資者、いわゆる ステークフォールダーが増えているので、
当然 この問題は議題に挙げなくてはならなかったはずだが、その形跡が認められない。
③ さらに、県(旧法:県知事)は、都市計画法第6条により「おおむね5年ごとに、都市計画
に関する基礎調査として・・・現況及び将来の見通しについての調査を行うものとする」
とされており、その施行規則には、「六.都市施設の位置、利用状況および整備の状況」
を調査するとしている。
つまり、県知事or県は、この ダブルブッキング を この調査で把握していなくてはならな
かったはずであるし、井原市は 県知事or県に、このことを報告しなくてはならなかった
はずである。 都市計画法 (昭和四十三年六月十五日)
このダブルブッキングの事実を認識し、かつ この問題を解決すべき機会が、少なくとも
上の3回以上はあったにもかかわらず、55年間 or41年間、さらに井原線の橋脚建造以後、
5年ごとに、2重、3重の見逃し、或は 怠慢が、岡山県と井原市当局に起きていたことになる。
〇 都市計画道路沿線の 55年余にわたる建築制限
都市計画道路が決定されると、計画道路沿線の家屋には、
都市計画法第54条3により建築制限がかけられ、また着工時には 住宅を明け渡さなくては
ならない状態に置かれる。
つまり、沿線住民は、その人生計画が 不安定で不明瞭な状態におかれるし、
また、その地域の人々(自治会等)の 地域の将来像も、見通しが立たない状態におかれる。
建築制限をかけられた世帯には、次の世代に 他地での生活を誘導することとになり、
その地域社会にも 必ずしもプラスの影響を与えないことが指摘されている。
① もし、国鉄井原線と都市計画道路とのダブルブッキングの解決が、井原線の橋脚建造前に、
なされていたら、沿線住民の人生設計を このように不安定なものにせずに済んだであろう。
というのは、
国鉄井原線は、戦後1951年構想され、吉備線と接続することで、岡山市から福山市までの
内陸部の東西を結ぶ鉄道を実現しようとしてきた中で、1966年に着工された経緯があり、
しかも、山陽新幹線(75年博多延伸)と同時開業を目指すという 壮大な構想の一部として
位置づけられていたのである。
したがって、鉄道の路線を計画する時点において、可能な解消は、
都市計画道路か井原線かの二者択一ではなく、鉄道の路線位置の変更だっただろう。
しかし、
② 1969年 橋脚敷設後においては、二者いづれかの放棄とならざる得なくなったが、
その勢いの赴くところ※、 都市計画道路の断念に至ったであろう。
もし、そうであれば、できる限り早く この都市計画道路を断念して、
55年余にわたって 沿線住民の人生計画、および地域社会を不安定なものにするという
罪深いことは免れたはずである。
※「都市計画道路~青木・境森線」構想の問題について
この計画道路の東の端は、旧馬越橋までとなっている。
なぜ ここで途切れているのか?
もし、計画道路が 国道2号線の内陸における東西の自動車交通を想定していたら、
当然 現在の国道486号線全線(起点:総社)を 都市計画道路としていたはずである。
つまり、この都市計画道路は 東西の物流のための構想ではなかったのである。
では、なぜ ここ(旧馬越橋)で切れているのか・・・。
1965年の都市計画道路の計画当時、まだ、笠岡~井原間を中心に「井笠鉄道」が、
西は 神辺まで、東は 矢掛まで走っていた(両線廃止は1967年)。
つまり、国鉄井原線着工の1966年当時、国鉄井原線が 神辺~矢掛間の井笠鉄道
に取って代わられるという見込みだったのではないか?
井笠鉄道は、その後 1971年 笠岡~井原間を廃止して、鉄道事業から撤退する。
これ以降、井原と笠岡とは、人流も物流も 大きく変化する。
したがって、
幅員18m(486号線の幅員×3)の都市計画道路が、東の端が旧馬越橋で切れているのは、
計画当時、井笠鉄道・木之子駅の存在が漠然とあり、外の世界への結節点が笠岡なのか、
それとも 福山なのか、井原市の立ち位置が曖昧だった だろうことが推測される。
一方で、内陸の東西交通(ただし、物流ではなく、人流)を 吉備線の延長としての
国鉄井原鉄道を主要なものにしようとしていた(直に岡山や福山へ)のではないか?
と推測される
―――このように、都市計画の全体に整合性が見えず、緻密さに欠けている印象が強い。
これは、時代が 激しく変化していた当時においては、無理からぬところもあったが、
しかし、都市計画決定後に 時代状況に合わせて、適宜変更を加えるという いわゆる
フィードバックが、県および市行政にまったく働かないまま、次々と外付けor上書き
で、当面の事に対処してきたため、内部にだんだん矛盾をため込んできたのである。
③ しかし、なぜ 都市計画道路の断念に至らなかったか?
1969年当時、井原市は なお 本格的な自動車社会には入っていなかった。
一家に 一台もない世帯がほとんどだったのである。
この年、やっと 東名高速道路が開通したばかりで、自家用車保有台数は 550万台余。
山陽自動車道の’熊野西~備前’開通が1982年、全線(神戸~山口)開通は 1997年。
その保有台数は それぞれ 約2458万台、4721万台である。
一方、テレビでは 都会生活への憧れを掻き立て、自家用車をもつのが 何か 一つの
ステータスであるかのように喧伝されていたが、その半面 交通事故の死者数は
1970年には 16,765人/年(24時間以内死亡)で ピークを迎えていた。
つまり、自動車社会は、
ここ井原市では、ゆっくりと ゆでガエルになったような感じでやってきたのである。
そして、気が付いてみると、我々は 自動車がなくては、一家に一台どころか、一人が一台
持たなくては 生活に困難をきたすという社会が到来して、今までの社会が 大きく壊れていた
のである。
旧商店街のありさま、そして かっての田園地帯が 工場・店舗や住宅に変容するなどへの
それぞれへの対処に、その都度 外付けで施策を重ねていくことに追われるだけで、
腰の入った 根本的な自動車社会への対応ができなかった。
( 計画から半世紀以上経った昨年、やっと旧商店街の都市計画道路2路線の削除等に至る )
(閑話休題)
なぜ、青木・境森線の西江原ー東江原区間の断念ができなかったか?
① 自動車社会へのイメージが明確でなく、ただ 漠然としたバラ色の夢のようなものだった。
② それゆえ、都市計画道路の必要性or不要性を はっきり認識できず、特に、
井原市の東西物流を担う幹線道路としての国道486号線の重要性への認識が、体系的に
なされていなかった。
486号線は、井原市域のほとんどが 都市計画道路となっているが、東江原や木之子に
工業団地を作りながら、今なお 西江原以東は、片側一車線のまま、じゅうぶんな整備が
なされず、道路沿線住民を、昼夜 自動車の騒音や振動に晒すなど、その日常生活に
さまざまな犠牲を強いてきた。 (しかも、ここの住民に都市計画税を課している!)
※ 486号線沿線での騒音測定では、昼夜を問わず どの10分間をとっても、
その間の最高値は 80デシベル前後となっており、住環境の劣化がすさまじい。
人の日常が営まれる住宅の傍らを 昼夜トラックが行き交うような環境にする
文明国など、この地球上のどこにもない!
③ 井原市民の従事する職業について、令和2年国勢調査の結果概要を、県がまとめている
のをみると、その8ページに、
> 製造業に従事する者の割合は、井原市が高く、県全体の割合より10ポイント高い。
――― と記している。 岡山県の市町村の産業別就業状況(2020年)
主な産業別(大分類)就業者の割合(令和2年)の市町村順位
「表3-①―b 主な産業(大分類)別15歳以上就業者の割合(岡山県市町村)」
をみると、井原市の製造業従事者の割合は、他市町村より とびぬけて高く29.6%である。
このことが意味するものは、ひじょうに深いものがあるが、今の文脈だけに限れば、
工場が、市域縁辺に たくさんあるということを意味する。工場がたくさんあるということは、
多くの貨物車(トラック)が通る道路がなくてはならないということでもある。
④ 井原市は、昔から工場誘致に力を入れてきたが、その成果が ③に現れているのであろう。
そのさい、工場誘致と道路整備はセットで行われなくてはならないのは当然である。
ところが、井原市は 工場誘致はしても、そのために必要な道路を苛酷に使いはしても、
以上のように 道路整備は怠ってきたのである。
工場誘致政策には、”鉄道よりも、道路が とにかく必要”という思いが、
「青木・境森線」西江原以東を都市計画道路から削除することを忌避させたのではないか?
井原鉄道を活かすなら、かなり杜撰な「都市計画道路」は 早々に断念し、
したがって、工場誘致政策ではない まったく別の道を歩む選択肢もあったのである。
しかし、井原鉄道は、第3セクター立ち上げの際の高邁な理想※ とは裏腹な現実である
ことは、市民 周知の事実。
※「・・・井原線は、国鉄吉備線総社駅と福塩線神辺駅を結び、内陸部を経て 岡山~福山
の両市に接続する主要路線で、岡山県南新産業都市と備後工業整備特別地域を東西に
結ぶ唯一の鉄道であり、公共輸送に恵まれない当地方における地域開発と、通勤、通学
をはじめとする住民の足確保に不可欠な生活路線として、多年にわたり沿線住民ひとしく
早期完成を念願しているところであります。
・・・ 内陸部唯一の鉄道として、沿線地域における住民生活の安定向上と地域開発に
役立つばかりでなく、公共交通体系の確立という国家的見地からも 極めて重要な
役割を果たすものであり、・・・ 」 S61年7月
岡山福山間国鉄吉備線延長期成同盟会 会長 西山公夫
――― 岡山・倉敷・笠岡・福山および美星・芳井の市町長宛文書
つまり、井原市の都市計画は、
鉄道と道路の両方をもって 市発展の土台にしようとしたのであった。
だが、「 二兎を追う者一頭をも得ず 」の譬えを 地で行く結果となっている。