末法五濁

ある念仏者いわく、

衆生われらの煩悩というものは、いよいよ頑なに、いよいよ頑固に、

いよいよ自己中心的になっていく。・・・ このことを よく知って

おかなくてはならない。」と。

 

つまり、今日の我々は、

100年前よりも、150年前よりも、200年前よりも、300年前よりも、

・・・1000年前よりも、さらに2000年前、3000年前よりも、

 

いっそう 煩悩に狂い、自己中心の考え方が蔓延(はびこ)ってき、

人間全体が小粒になり、他人のことを考える余裕がなくなって

きている・・・。というのである。

 

――― こういう認識は、「文明」と「野蛮」という概念の転換を、

我々に促している。

 

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そもそも、歴史をふり返れば、

どの文明も国家も社会も、栄枯盛衰があり、

自然現象を見て、我々は 盛者必衰のことわりを知るのである。

 

ある世界観や価値観の枠組みの中での世代を越えた人々の営みの

積み重ねは、やがて 爛熟し、腐敗し、自らを支えきれなくなって

崩壊するものであろう。

 

しかるに、近代西欧に生まれた文明は、

19世紀に “人類は 限りなく 進歩していく運命にある”

という「進歩思想」を唱え、

 

時間の経過によってものを見るということを蔑視し、

永遠の相において ものを見ることだけを

意味ある認識としたのである。

 

つまり、 “ものは衰退し やがて滅びる”という歴史観

失った特異な文明が、この近代西欧であった。

そして、明治の文明開化は、まさに この文明を取入れたのであった。

 

 

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この近代西欧の「進歩思想」には、

仏教の「末法五濁」思想と違って、

“世の中は だんだん悪くなる” という発想がない。

 

 ※ 末法とは?

  正法: 釈尊滅後、500年。

     教えが正しく伝わり、正しい修行、正しいさとりが得られる時代。

  像法: 正法後1000年間。

     教えも修行も像(かたち)ばかりで、証は得られない時代。

   末法: 像法後1万年間。

     かろうじて教えは伝わっているが、行も証もともなわない時代。

 

 

 ※ 五濁とは?  

   劫濁・・・ 「劫」は、「時代」という意味で、時代の汚れ。

      疫病や飢饉、動乱や戦争が続発するなど、時代そのものが汚れる状態。

   見濁・・・ 「見」は、「見解」(人びとの考え方や思想)。
     邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態。

   煩悩濁・・・ 煩悩による汚れ。

      欲望や憎しみなど、煩悩によって起される悪徳が横行する状態。
   衆生濁・・・ 衆生そのものが汚れること。心身ともに人の資質が衰えた状態。
   命濁・・・ 
元は、人の寿命が短くなること。自他の生命が軽んじられる状態。

      また生きていくことの意義が見失われ、生きていることのありがたさが

      実感できなくなり、生涯が充実しない虚しいものになってしまうこと。

 

    どんな悲惨事が起きようと、これを深刻なこととして捉えず、

    これを糧にして、よりよい物にしよう。悲惨事を悲惨事として

         受け取らず、これを よりよい未来を作る踏み台とし 手段とする・・・。

 

    すべての悲惨事が、

    「悲惨事」ではなく、将来のための「道具」となる・・・。

 

    これが、近代西欧の「進歩思想」の冷酷なところだが、

    我々は、これを冷酷とは 少しも感じない。

    むしろ、これを 文明人の「よいところ」と思うのである。

 

       

 

末法とは、釈迦の入滅を 時間感覚・歴史観の起点としている。

つまり、釈迦仏が この世を去ったということに、己が生きる上に

おいて 重大な意味を感じた者の時間感覚・歴史観なのである。

 

末法五濁は、

我々の願望や努力精進では いかんともしがたい業報因縁なのであり、

その中で、我々は悲劇的なものとしてしか存在できない

――― ということなのであろう。

                          ※ 業報因縁=歴史的現実

 

                                     合掌